春の嵐 朗読 / 白鷹




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所要時間:40分程度
利用規約をお読みいただきご利用下さい。
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東海道を繋ぐ宿場町は賑やかだ。
特に京の都から江戸へ下る為に必須となるこの宿場は、物資も豊かで生活必需品はまずこの宿場で揃えるのが賢い選択と言えよう。
道中は人でごった返しあちこちで喧騒の声が聞こえる。

未四つ刻、楼主から言い渡された覚書の品物は揃ったが思ったより時間が経ってしまっている。
客に出す料理の下準備は終わっているものの、申三つ刻には見世に戻っていたい。その為にはさっさと目的を果たさなければならない。
じわりと焦りが足元から湧き上がるのを頭を一振して追い払う。
若山遊郭、華屋に務める若衆という肩書は偽りではないが、それは体裁と正体を悟られないようにする為の隠れ蓑に過ぎない。尾張藩主御附家老所縁の同心、それが本来の仕事だ。
いや、同心と言うのも語弊があるかもしれない。藩主から預かっている密命を執行する為に都合のいい同心を名乗っているだけに過ぎない。
そして、その密命を果たす大義の為にならば何をしても許される。
密輸などの主に憚られる行為が赦免されるだろうが、状況として不利を被る等最悪の状況下に於いては人を殺すもやむなし、とそう告げられている。
無論無益な殺生を行う為ではないが大抵の事は黙認される。
今日の目的は、遊郭で取引されたであろう献上品目録と手紙を強奪し、連絡網を絶つ事にある。それに寄ってどこの藩が動くか見極めたいという命が下っている。
公用の飛脚を使わず御家人を遣って届けさせるのであればその内容も公になっては困る内容なのだろう。
だからこそ目録と手紙を持つ男を尾行してきたが、人通りが多過ぎる環境で奪うというのは些か無理がある。
今回は諦めるか、と考えていた所で、件の御家人が人通りの少ない路地に入って行くのが見えた。

ようやく好機が訪れたかと後を尾行る。

どうやら男は近場に厠がない為、裏路地に入って用を足していたらしい。
一息ついた男の首筋に短刀をぴたりとあてがう。声も無く息を飲んだ男だったが状況を理解するのにそう時間もかからなかったようだ。
男は短く

「か、金か?」

と問う。
頭巾で顔を隠し真後ろに立って身元割れを防いだ人間に間抜けな質問をする。

「懐の手紙を」

そう告げると男は「しまうだけしまわせてくれ」そういってごそごそと着物の合わせを治すと思いきや白刃が空を凪ぐ。反射的に避けた俺は男の手に握られた匕首を認める。
なるほど、敵もただの御家人に重要な役目を預けたりしないという訳だ。

「どこの藩の者だ」
男がそう問いかけるが答える義理も義務もない。目的も知られてしまった以上昏倒させるしかない。最初にそうしておけば良かったと思った所でもう遅い。

「お前ぇさん、若ぇな」

軽口を叩きながら切り込む刃は鋭い。

「何もこんなデカい山に首突っ込んで死に急がなくてもいいもんを」

空を切って閃く刃は容赦ない速さだ。守ってばかりでは埒が明かない。陽は山の端に沈み掛かって酉の刻を継げていた。
この男は生かしてはおけない、脳裏に警鐘が響き渡る。顔を見られた訳でも素性が割れた訳でもないが、昏倒させるだけではいずれ大きな支障となる。
もしかしたら時の焦りがそう感じさせたのかもしれない。だが、これ以上の時を割く訳に行かなかった。
一閃する刃を深く屈み込んで躱すと男の懐に飛び込んで心臓を一突きにする。血飛沫が上がる前に蹴り飛ばすと男の視線は虚空を彷徨い、目を見開いたままあおむけに倒れ込んだ。
じわりと血の染みが男の着物に染み込んでいく様を眺めている訳にも行かず、懐を開き目録と手紙の二つを取り出してその場を後にする。
雑踏に紛れ込むと頭巾を剥がして人混みに紛れる。

しばらく後、異変を感じたどこかの女が路地裏に入ったのだろう。絹を裂いた様な悲鳴が響き渡り事件を宿場町に知らしめた。何食わぬ顔で宿場町を立ち去る。
男を刺した右腕がだるい。殺さずに済ませたかった、それは己の心に投げ掛けた慰めの言葉だった。





俺が初めて人を殺したのは十三の春。
鬱陶しい雨の続く春雨の時期、激しく打ち付ける様な雨に全てが洗い流され、残った物は罪悪感だけだった。



ここ、尾張国城下に広がる東海道宿場町に繋がる若山遊郭は、知名度こそ低いものの幕府公認の遊郭である事には違いない。
俺の母は、若山随一の大見世『華屋』のお職だった石楠花という花魁だった。花魁と言えど女郎であるが故、父が誰なのかは当然判らない。
若山で産まれ、若山で育ち、きっと俺は若山で死ぬのだろう、と漠然と感じている。
華屋の楼主の配慮があり、若衆として物心ついた時からここで暮らし働いている。
周囲からは天女か弁天かと羨望の眼差しを集める美貌の石楠花花魁に似ていると言われた俺を、本来ならば大門横の陰間茶屋に売られてもおかしくない身の上だったにもかかわらず、
我が子の様に育ててくれた楼主には感謝をしている。

ここでは、人並みに暮らせるのだから。

女郎とは違い若衆は大門の出入りは自由だ。俺に限らず所用で外に出る事もあるが人の視線は冷たい。
俺達若衆を含め遊郭で働く男達は女を食い物にしている忘八、いわゆる穢非人として呼ばれる俺に人権などはない。
石を投げ付けられたり唾を吐き掛けられるというのは日常茶飯事で、既に痛む心も失くしてしまった。
俺は若山以外で暮らす事など出来ないのだ。
楼主は俺に文字の読み書きや十露盤、幕府推奨儒学の内朱子学を表向きに、隠れ潜む様にして幕府より禁止令を出されている蘭学を学ばせていた。
俺自身の向学心や向上心も手伝って七つの初春には、楼主が舌を巻く程の勉学を身に付けていた。

同じ年の夏、見世が藪入りだと言われ外に連れ出された俺が連れて行かれたのは、武術を学ぶ為の道場だった。
剣を使った武術まで身に付けさせようとする楼主に少し欲張りではないかと問うた覚えがある。
が、楼主は大切なものを守りたいと思った時身に付けておかねばならぬものはまだ沢山あると、この道場で俺は古武道を学ぶことになった。
そうなると流石に少しおかしいと勘付く事もある。周囲の若衆は決してそんな教育を受けてはいない。
何故俺だけがその様に様々な物を取り入れなければならなかったのか。不服はなかったが確たる理由を求めた。
その時初めて楼主が尾張藩主御附家老所縁の同心である事を教えて貰ったのだ。他言無用の厳密な鉄則と共に。
古武道は週に三日概ね一刻を目安に通って武術を身に付けた。
徒手に寄る格闘、鈍器や短刀の使い方や銃器、乗馬や水泳に至るまでここまで必要とするものかと思われるものまで全て学んだ。
俺の幼少期は様々な事を学び、且つ若衆としての仕事をこなさなければならない心身ともに相当厳しいと感じる事が多かった。
己の与えられた仕事を脇目も振らず徹するだけの若衆や、のんびりと母親の膝に抱かれる町人の子供を羨ましく感じながら心が閉鎖的になって行ったのもこの時期ではないだろうか。

りんと出会ったのはそんな時だった。
八つ目の春先、まだ雪が解け切らない冷たい朝、皆が寝入る頃に台所裏で啼く雀に餌でもやろうかと回り込んだのだ。
泣いていたのは雀ではなく幼い少女だった。
足音なく傍に立った俺に驚きの声を上げて、一瞬泣き声が止まった。

「君は、誰?」」

おそらく売られてきた少女だろうというのは予想が付いた。今考えると何故こんな間抜けな質問をしたのかと自分自身に疑問を投げかけるだろう。

「りん」

少女は俺に名を告げるとまた泣き始めた。雀の様な声は少女の物だった。
とても美しい顔をした少女。売られる間際まで裕福な暮らしをしていたのは見れば判る。
ふっくらとした頬にうっすらと紅が差している。明け方に台所の料理番から貰った二つの草餅を一つあげると少女は嬉しそうに微笑んだ後、草餅を食べながら泣いた。
りんと俺はすぐに仲良くなった。年が同じだという事もあったのだろうが、手習いや学問を共に行う事が多かったのだ。
本来売られてきた娘はすぐに姐の指導下に置かれるか、そうでない女は下働きをさせられるか。いずれにも属さない少女の処遇を不思議に思い楼主に訊ねた。

「りんはウチの引っ込みよぉ」

楼主は煙管を吹かしながら言った。
引っ込みとは見世で育成する費用をもち、教育を叩き込む妓の事だ。

「今は姐女郎なんざ見る必要はねぇ。ありとあらゆる学識と芸事を学ばせる」

楼主の意図は外れず、元々が怜悧な性質だったりんは、男顔負けの学識をあっという間に身に付けてしまったのだ。史記の解釈を討論して挙句口論に発展した事もある。

りんと俺が、お互いに惹かれあって行くのは自然の道理だった。

そうして十三の年、りんが師匠の下で琴を爪弾き、俺は人目を忍んで古武道の為に道場へ向かおうとしていた時の事だった。

「蓮太郎」

声を潜めて楼主が大門を出て、遊郭から離れた陽の差さない暗い路地裏から俺を呼んだ。
用があるのなら見世で言えばいい物を、わざわざ遊郭を出てから物陰に潜む様にして俺を呼び付ける。楼主は頭巾を目深に被り身元割れを防いでいた。
釣られるようにして俺も懐から手拭いを出して頭から被ると路地裏へと入り込んだ。

「一つ、何故と問う事あるべからず」

幼い頃から叩き込まれた密命三箇条を楼主が口にする。知らず俺は続きを口にしていた。

「一つ、命令に対し否やを唱えるべからず。一つ、全ての令に於いて他言するべからず」

「いいな、蓮太郎」

そう言って手元に渡された人相書きが一枚。その紙の人相を瞼に焼き付けると楼主に返す。

「この人をどうするんですか?」

一抹の不安を覚えて楼主の顔を見る。だがそこにあるのは冷徹な暗躍者の顔だった。

親指を立てて首元を真っ直ぐに横切らせる。「殺せ」と。
背筋にじっとりとした冷や汗が流れる。
何をした男なのか、どうして殺さなければならないのか、殺さないとどうなるのか。それは三箇条全てが拒否した問い掛けだった。
だが楼主は俺の頭に手を置くと柔和な笑みを洩らした。

「要はお前が問わなきゃいいんだよ。同じ使命を持つ者が協力の為に情報を共有したそれだけのこった」

一瞬意味を掴み損ねた俺に楼主は続ける。

「その男は水戸藩配下に所縁のある手先で紀州藩の懐具合を調べてこの遊郭にまで辿り着いたらしい。まだ情報は人相書きの男の所どまりだ。殺して情報を断つ」

徳川御三家の不仲は別段取り上げる必要もないくらい些末な事情だ。だからこそ頭に湧いて出る疑問を拭い去れなかった。

「お前は頭の回転が早すぎる。なぁ蓮太郎、機転の早さは利点だが人に寄っちゃ都合の悪い事もあるだろう」

酷く悲しげな顔をする楼主に質問を投げかける事は出来ない。何も三箇条だからではない。

「尾張藩は油断させる為に紀州藩に恩を着せて置こうって寸法よ。まぁ、そんな程度で深い歴史のある犬猿の仲に終止符を打つ事もできゃしねぇだろうがよ」

飽きもせずにいつまで続ける事やら、そう愚痴る声に力は無い。三箇条の下、楼主だって理由を知らされないまま一体何人の人間を手に掛けたのだろう。

楼主(おやかた)は?」

「俺は小者を始末する」

決して俺だけに業を背負わせる人ではない。本来は温情のある人なのだ。
件の男は通り脇の蕎麦屋に入って行ったというから、斜向かいにある甘味処で煎茶を貰いつつ男が出て来るのを待った。
それ程待つ事も無く男が蕎麦屋を出て来る。店を手伝う娘にちょっかいを掛けながら、少し酒が入っているのだろう。鼻歌まじりに訳の分からない歌を歌っている。
少し間を置いて、煎茶の金を1文払うと男を尾行する。
人通りの多い目抜き通り、人目に付かない様にどうやって殺す?
だが、密集する程混み合っている訳でもなければ、人目がない訳でもない。近付けば明らかに怪しまれるだろう。
手元にあるのは短刀と十手。人殺しの道具としては乏しい物だ。
男を尾行する事四半刻。不意に男が路地裏に駆け込んだ。見失っては拙いと跡を追うが、路地裏に男の痕跡は無かった。

「甘ぇんだよ。お前さん」

音もなく後ろから声がする。今まで尾行していた筈の男が逆に刃物を手にして俺の背後に立っていたのだ。
しくじった。

「四半刻も離れずに姿が見えりゃあ尾行されてんのなんざ、脛に傷を持つ人間なら誰でも気付く」

「そうですか、貴重なお教えをありがとうございます」

「はっ、頭イかれてんのかい? 俺はお前ぇさんを殺して跡形もなく片付けてそのまま何事も無かった様に人ごみに紛れる事が出来る」

つまり、余裕があるから話し掛けて来たのだ。子供だと侮られている。

「どこのモンだ? 話したらまぁ見逃してやる事も出来る」「お・・・、尾張の」

震えた声で答えながらこの状況下から優勢に立つ為の地の利を探す。
右側に梯子、左に斜め掛けにされた木材と踏み台。目の前は隣接する長屋の細い隙間。この男には難しいだろうが俺なら通れる。

「尾張は言うまでも無かろうが」「御付家老の・・・」

続きなど言う積もりは無かった。男の持っている刃物を避けて屈み込むと、左側にある木材を蹴倒す。
ガラガラと大きな音をたてて倒れる木材が人目に付かない筈もない。屈み込んだそのまま男の股をくぐって背後に立つと首を深く切り付けて、長屋の隙間から反対側の通りに抜ける。
まだ、男の完全な死を確認出来ていない。
己の身に男の血飛沫が散っていないかを用心深く確認すると、路地を回り込んで今一度人混みに紛れながら男を殺した場所に戻る。
そこには首を切り裂かれ材木に押し潰され奇妙に歪んだ体の男がおびただしい血を流しながら、倒れ込んでいた。

死んでいる。

カッと見開いた目に光はない。呆然と立ち尽くした俺は懐にしまった短刀が人目に付かないか今一度確認する。
一体どれくらい眺めていたか判らなかったが、顔にぽつりと落ちた雨にハッとすると、人々は男の顛末などどうでもいいかのようにそれぞれが屋根のある場所に散って行った。
気が付くと俺は遊郭近くの川沿いに来ていた。雨にぐっしょり濡れたまま近くの柳にもたれかかると、喉元に込み上げる嘔吐感を抑える事は出来なかった。
体の中にあるもの全部吐きだして川の水で口を漱ぐ。どうやら山頂では酷い豪雨だったらしい。川は水かさが増してごうごうと音をたてながら勢いよく流れる。
川の中に短刀を放り投げると、のろのろとした緩慢な動作で立ち上がる。
帰らなければ、楼主が心配する。重い足と気怠い右手を引きずる様にして見世の近くまで戻ると赤い番傘が目に入る。

「蓮太郎!」

俺の姿に気付くと、りんは駆け寄って乾いた手拭いを俺の顔に押し付ける。

「早く部屋に戻ろう? 体が冷えちゃうよ」

そう言って差し伸べた手が右手に触れる。瞬間払いのけて俺は激しく後悔した。りんの顔から笑顔が消え困惑する。
だがそれも僅か、おそらく沢山の疑問を抱いたのだろうにそれら全てを飲み込んでもう一度笑顔を取り戻す。

「暖かい粥を啜って甘いお菓子を食べよう? 待ってたんだよ?」

待っていた、と。
そんな一言に救いを求めてしまう俺は愚か者なのだろうか。
雨足はだんだん酷くなり、あらゆるものを洗い流す。

いつか、俺のこの罪も流される事があるのだろうか。



東海道宿場町から帰った俺を変わらない笑顔で迎えるりん。
いつしか大門をくぐると真っ先に彼女の姿を探すようになっていた。
人を殺めたこの手を両手で包んで暖めようとする。
雨の匂いを含ませた風が激しく吹き荒れる。仲ノ町に植え付けられた桜の花びらが舞い散った。